江戸時代に江戸(日本橋)と京都(三条大橋)を結んだ東海道の五十三の宿場を東海道の五十三の宿場を描いた浮世絵と絵師歌川広重と共に終着宿場まで辿りたいと思います。
日本橋は徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年に初めて架けられた橋で
翌1604年には東海道や中仙道などの一里塚として現在に至るまで全国道路の基点となっています。現在の橋は明治44年に石橋として架け替えられたものです。
【東海道一里塚跡】 とは
旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚です。
この制度が整ったのは、慶長八年(1603年)時の将軍徳川家康が日本橋を架設
慶長9年(1604年)秀忠に「一里塚」を作るよう命じた。
江戸の日本橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、各街道の両側1里(約4km)ごとに目印となる木を植え、行程の目安、木陰による休息の場としました。
一里塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約1.7m)に土を盛り上げたもので、その上に松や榎などの丈夫な木を植え目印として設置されました。
塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっています。