赤い薔薇のSoliloquy

華道教授で サッカー大好き お母さんです

土山宿

akaibara2006-03-23

歌川広重【土山・春之雨】

        土山宿一里塚 
       【江戸日本橋から110里】
馬子唄にも
「♬(ハイハイ)坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山エー雨が降る(ハイハイ)♪」
                     
と唄われているように雨が多い所で広重の絵【土山・春之雨】には雨の降り続く田村神社坂上田村麻呂を祭る神社)の木立の間を合羽の行列が濡れそぼり、うな垂れ歩く情景]が描かれています。


土山宿は西に向かう旅人が鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場

平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきました。


源頼朝が鎌倉に幕府を開くと京都と鎌倉を結ぶ交通路線として武士だけでなく、商人、庶民の通行も盛んになりました

江戸時代になり江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、東海道の49番目の宿駅に指定されてからは隆盛しはじめました。


現在も本陣や旅籠の並ぶ町並みはきれいに整備されて残され、宿場町の面影を残しています。

【関宿周辺・観光マップ】 
東海道一里塚跡】 とは 

旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚です。
この制度が整ったのは、慶長八年(1603年)家康が日本橋を架設し、翌九年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折三十六町毎に街道の両側一里(約4キロ)毎にその目印として設置されたのが一里塚です。

塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっています。