赤い薔薇のSoliloquy

華道教授で サッカー大好き お母さんです

東京大空襲 の検索結果:

若木

…日記の検索結果】 『東京大空襲』 【詳細】 東京大空襲から76年 太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、東京の市街地が無差別爆撃を受け、約10万人の死者を出した東京大空襲から76年。都内の下町を中心とする住宅密集地に米爆撃機B29が大量の焼夷(しょうい)弾を投下し、約27万戸が被害を受けた。 この時6歳2ヶ月 東京(品川)から母方の実家の横浜へ疎開(引っ越)した直後でした。 勿論、横浜でも焼夷弾(しょういだん)に追いかけられ母子4人(父は戦地)防空壕に逃げ込み助かりました…

『平和っていいですね!』

…945年3月10日 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる。 (Wikipedia) この時6歳一ヶ月東京(品川)から母方の実家の横浜へ疎開(引っ越)した直後でした。 勿論、横浜でも焼…

『母の日』

…な母だと思います。 東京大空襲の前 (昭和16年頃だと思う) 慌しく出征して行った父のために戦地に送った記念写真(お守り)だったのでしょうか。 年子で兄が4歳、私2歳、弟1歳、母 当時のねえや(お手伝いさん)の信ちゃんも一緒です。美人で、気配り、思いやり、苦労人の母は 今時のように、政府からの援助も無く父が復員するまでの7年間3人の子供を立派に育ててくれました。 夫を戦争にとられた当時の女性は強かった! 人間はどんな時でも自立心を忘れないことを教えてくれました。 【日記の検索…

 『鎌倉霊園草取り』

東京大空襲の日*1 若い人たち(マイカー)を頼らず二人で・・・例によって、市バス・地下鉄(ブルーライン)は高齢者パスポート、JR・鎌倉バスはSuicaを利用、園内は無料の巡回バスで墓地の最寄まで行き、とても便利です。春・秋、彼岸の前の我が家の行事*2です。よく切れる鎌(大小2本)持参です。(*^^)v クリックで拡大画像 Before after 根こそぎ取りました、思えば去年は6月に行ったきりでしたから。 この仕事があるので“鎌倉通い”が続いています、終わった後の鎌倉散策も…

『東京大空襲から67年』

…いかなければならない」と述べた。その後、秋篠宮ご夫妻と参列者が次々と焼香して犠牲者の冥福を祈った。 備忘録 【日記の検索結果】 『東京大空襲』 【詳細】 *1:1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。神奈川県を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

『東京都心で桜満開』

…てきます』私は6歳で東京大空襲*1に遭遇し楽しみにしていた入学式も行われず終戦*2を迎えました。今の震災地と共通したものがあると思います。大勢の大人の方の頑張りで当時の子供たちは育ちました。 『ありがたいと感謝しています』 家もなく、物も食料も乏しい戦後のどん底でも春には桜が咲きました。 【備忘録】『都心の桜』 【日記】 【桜見物】【しだれ桜と庭園】六義園(りくぎえん)の桜 ウェブリブログ【六儀園】[はてなダイアリー 六儀園]【千鳥ケ淵の桜】[はてなダイアリー 千鳥ケ淵]【小…

「東京大空襲」

第二次大戦 *1 1945(昭和20)年3月10日 その日から65年が過ぎました。 その時 私 満6歳 子供でよかった! 東京の商家で父と店の住み込み店員2人が戦地に、お手伝いさんも里に帰りました。 母子4人で実家の横浜へ移動したすぐ後のことでした。 御蔭で命拾い*2しました。 横浜も中心地でアメリカ軍B29の焼夷弾を避け防空壕に入ったのも昨日のように覚えています。 入り口を守ってくれていた方に焼夷弾の火が移りその姿が忘れません。小学校入学前のことでした。 入学式(それどころ…

写真取り込み

…込み、写真もプリントしてみました。 東京大空襲の前 (昭和16年頃だと思う) 出征する父に持っていってもらうための記念写真だったのでしょうか。 年子で兄が4歳、私2歳、弟1歳、娘時代は小町娘だった母 当時のねえや(お手伝いさん)信ちゃんも一緒です。家族を残して出征した父の心境は計り知れません。 子供3人、残された母も・・・。この写真を肌身離さず持ち、私が小学校4年生の時ソビエトから引き揚げてきたのでした。『お守りの写真』です。備忘録【日記 スキャナ】 【日記 おうちプリント】

今ある命

東京大空襲から63年 私達家族(母兄弟3人)は父親、店員3人が共に出征したため店を閉め、 東京から母方の実家がある横浜に疎開していて命拾いをしました。それでも終戦まで防空頭巾を被って、防空壕を出たり入ったりしたのを憶えています。 防空壕の外に立っていた男の人に B-29から投下された焼夷弾が当り火達磨になった姿も目に焼きついています。小学校入学の年でした。 楽しみにしていた入学式に行った憶えもありません。 低学年時代は、すべてが失われ勉強もしませんでした。 大きくなって東京大…